私は、何度もライナスと差し出された赤いバラとを交互に見た。私が声を発したら醒めてしまうんじゃないかと思うほど、夢のような出来事だ。
 夢……じゃないのだろうか。
 私はそっと右手を上げて、差し出されたバラの花を掴んだ。
「嬉しい……」
 私が思わず呟くと、ライナスが優しく微笑んだ。いつも、優しく笑うライナスだけれど、いまの笑顔は今まで見たことないほどに嬉しそうで、輝いている笑顔だった。
「私も……」
 あなたが、と言おうとして突然、強風が吹き荒れる。私は、向かい風にたまらなくなって、目をつぶった。マロウを縦断するように吹き抜けた風は、私の髪の毛をなで上げ、顔にあつまった熱さえ奪い取っていった。
 ああ、そうだ。
 私には、忘れてはいけないことがあったんだ。
 強風がやんで、もう一度私はライナスへと視線を向けた。ライナスは変わらず優しい視線で私をみつめている。
「私も……貴方とならうまくやっていけると思うの」
 貴方が好き、という言葉は飲み込んだ。
「でも、私はベツヘルムの呪われた王女。婚姻は王に従うべきものです」
 父王は、早馬でルクセリア王国が荒れることと、敵国であると私に知らせてきた。自分の家臣がルクセリアに寝返ったのが許せなかったのだろう。寝返ったのは、新参者ではなくて昔からベツヘルム王家に仕える、伝統のある家だったのだ。どれくらい、父王は憎い、と思ったのだろう。この上、私がルクセリアに嫁いでしまっては……これ幸いにと私ごとルクセリアを滅ぼすだろう。もともと、愛されていた子ではない。
 だけれど、このままマロウ総督であれば、ルクセリアに侵攻することは止められるかもしれない。マロウの軍事力は、王都に常駐する軍隊に比べたら数は少ないが、それでも発言権はある。
「貴方とは、道が違うのです」
 本当は、貴方が大好きだと言いたい。
 私はバラを受け取りはしたものの、その言葉を告げられたライナスの顔が絶望したように暗くなっていくのを直視するのが耐えられなくて、視線をそらした。
 次の瞬間、あっというまにライナスの腕に捕らえられてぎゅっと、抱きしめられていた。その温かい腕の中は私にとって、すごく心地のいいものだったけれど、私はここにいてはいけないのだ。
 なんで、私はベツヘルム王家の血を引いているのだろう。
 私は、初めて……自分が王家の娘だと知らされてから始めて、私の生まれを心から呪った。
 いつまでもこうしているわけにはいかないので、そっとライナスを押し返して彼を見上げた。ライナスは悲しそうに笑って、「送っていくよ」と言ってくれた。
 来たときと同じように海岸線の道をずっと歩いていく。来たときと違うのは、無言で歩いているのが非常に居心地が悪いということだ。だけれど、何か話してもそれ以上に気まずい気がした。総督府についたときには、もうすっかり暗くなっていた。
 別れ際に、ライナスは私の右手をとって手の甲に軽く口付けた。
「さようなら、僕の姫君」
 私は彼の思いを断ったのに、最後まで紳士的にライナスは接してくれた。彼は、大人なんだと思うと同時に、その後姿に追いすがりたいと思う気持ちを必死で押さえ込んだ。
 私は必死に感情を押さえ込んで、私室まで戻った。エヴトキーヤに誰かきても追い返すように言って、ひとりにしてほしいと頼んだ。
 心配そうにエヴトキーヤは私の名前を呼んだけれど、それに答える余裕なんてない。
 ライナスからもらった、バラの花を空いている花瓶に挿して、私はベッドの上にうつぶせに寝転んだ。
 そのときになって、ようやく私は声を上げて泣くことができた。

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