新たな出発

 私は、提出された書類に頭を悩ませていた。私が手にしている書類は、これまであつかったどの件よりも重くて重要だった。

 セイが移動願いを出してきたのだ。

 文官の人事権は、総督府の人事部というところで司っているので私のところまで話が来ることは無い。セイは、文官なので部署移動はすべて人事部が決める。彼の場合、「名門出身」という以外には特に肩書きの無い文官ではあるが、私が幕僚としてマロウに連れてきたので、私のところまでこの書類がやってきた、というわけだ。
 セイの移動希望先は大陸行路の東の要『シュテンツア城』だ。同じ六貴族のシーヴィア・コルツフットが守備隊長として赴任している。そして、アラニカ一族が影響を及ぼしていない地域でもある。
 セイに真意を問いただすために、執務室に呼び出し私は、机を挟んでセイと向かい合って座っていた。
「なぜ、シュテンツア城なの?」
「……ダメ?」
 いつものように、可愛く小首をかしげる。いつもなら、それにほだされていろいろ誤魔化されてしまうけれど、今日は、そんなことするわけにはいかない。ほほが赤くなるのを意識しながら、だけれどはっきりとたずねた。
「アラニカ一族は、一人もいないと聞いている場所だけれど、それでも行くの?」
「僕の決意は固いよ」
 珍しく真剣に答えるセイの樣子から、本気なんだと私は思った。
「……私の下では嫌になった?」
 一番、聞きたくなかったこと。
「違う……違うよ。僕は初めて、誰かの役に立ちたいと思った。それまで不自由なく女の子に手を指し伸ばせていたのに……今の僕にはできない。ナトゥラムも、パルもできているのに」
 セイは、温かくて甘いお茶を一口飲んだ。
「僕は、一からやっていこうと思う。家の名前に縛られるのではなくて……」
 今まで、ずっとアラニカ家の庇護にあったと、彼は言った。
 シュテンツア城は、国境にあるとはいえ、長年平和を保ってきた。おそらく今後も大丈夫だろう。セイがそんなにやる気なら、私は応援してあげたい。それに、弟も言っていた「本気でやれば、書記長の座なんかくれてやる」と。少しでも、サーデライン殿下の助けになるのなら。
「わかった。シュテンツア城、城主宛に私から連絡をするわ。……頑張って、なんて私には言えないけれど……体に気をつけてね」
 私は、その場で移動願いの許可証にサインをした。


 いろいろあって、伸びてしまった海賊討伐の戦勝祝いとセイのお別れ会が総督府で開かれた。格式ばった宴会は苦手だから、誰でも楽しめるように偉い人からの挨拶は極力減らした。ただ、示しがつかないので私だけはどうしても、一言行ってほしいとライアに泣きつかれてしまった。
 磨き上げられた爪も、丁寧に編み上げられている髪も、豪華な服も少しは様になってきているだろうか。
 葡萄酒の入ったゴブレットを手に持って私は、壇上に上がった。
「海賊討伐お疲れ様でした。今夜は、楽しんでください」
 乾杯の掛け声に、それまで静かだった場がはじけたように騒がしくなった。私の両側には、影のようにひっそりと私を守るためにミシェーラとミズライルが控えている。ライアも、ナトゥラムも、パルも、セイも、ライナスも、女の子たちに囲まれながら楽しそうに話をしている。リコリスは、静かに飲んでいたいのだろうけれど、その美貌のため男たちが放っておかない。そして、新たにアリフがこの場にいる。
 私は、討伐が終わってすぐにアリフと交渉して青嵐団を正式に水軍として向かえることを伝えた。もちろん、強制ではなくて残りたい人だけと伝えたのだけれど、誰一人かけることなく水軍になってくれた。
 こういう場所は、初めてとアリフは言っていたが、すごく慣れているように見える。もっとも、おろおろしているアリフなんて想像つかないけれど。
 セイが話しかけてくる人たちから一人はなれて、バルコニーへ向かうのが見えた。私は、そっと彼に近づいた。
 ちょっと変わった人だけれど、セイのおかげで私はここまでこれたんだと思う。忙しくて、セイの移動を決めてからゆっくり話はできなかったから、お別れぐらいちゃんと言いたかった。
 バルコニーの手すりによりかかって、ひとり月光の下でたたずむ彼を見て、私は息を呑んだ。月明かりに照らし出されて、うすぼんやりと光る彼は、神に愛された子供のように美しい。声をかけたら露となって消えてしまったという、御伽噺を小さいころ聞かされたが、まるでその物語のようだ。ためらいがちに声をかけたら、セイは振り返って微笑んだ。
「いよいよ出発だね」

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